「みどり・自然・すまい」(5)

    

  今日は、大田区「鵜の木」の私の家の話をしたいと思います。

 私の家が建っているのは多摩川武蔵野台地を削り取ってできた国分寺崖線東京湾に迫る南端の台地で、この辺り一帯には古来から人々が住んでいたようで、今もここかしこに古墳が多く残っています。有名なのは、東急多摩川線鵜の木駅から2つ目の多摩川(昔の多摩川園前)駅を降りてすぐの多摩川台公園の「亀甲山古墳」です。

 「鵜の木」の地名ですが、旧石器時代の遺跡や石器が出土した近隣の光明寺の記録によると、関東平野のこの辺りには太古から豊かな森が広がり、鵜が多く生息していたことから、自然発生的に「鵜の森」から「鵜の木」と鎌倉時代には呼ばれていたそうです。

 室町時代になると、下野の国(今の栃木県佐野市)から天明家一族(今も地元の地主さん)が移り住み村落を作ったそうで、江戸時代の鵜の木村の盟主天明家の敷地は東急多摩川線鵜の木駅から4駅目の蒲田まであったというから驚きです。 

 大正7年(1918年)に「田園都市株式会社」を創設し、畑地と雑木林が広がる今の目黒、品川、世田谷、大田区一帯48万坪あまりの土地を買収したのが 、今放映中のNHK大河ドラマの主人公の実業家渋沢栄一です。 

 渋沢は日本で初めて計画的な住宅専用市街(今でいうニュータウン)の建設を目指し、大正11年(1922年)から洗足、大岡山、そして多摩川台地区の分譲を開始しました。当時販売されたのが「田園調布」で、一区画は150坪、2mの高さの生垣、道路から2m奥に家を建てるなどの条件つきの住宅専用分譲地でした。その豊かな街並みは、今も残されています。

 実は、私の祖父もこの多摩川台地区の分譲地だった「鵜の木」を買い、家を建てました。しかしながら、この家は太平洋戦争でB29の焼夷弾により全焼。戦後、祖父が再建した2軒目の家の8畳の座敷には大きな木(木の種類は不明)をくりぬいた大きな火鉢と一枚板の大きなテーブルがありました。実は、この大きな火鉢とテーブルは焼夷弾が落ちて延焼する家の中から、祖父が「火事場のバカちから」で庭に投げ出した唯一の家財だったそうです。

 火災の延焼跡が黒くシミになって残っているこの大きな火鉢とテーブルは、祖父から母、そして孫の私へと代々受け継がれ、今、テーブルは私の家のリビングに置かれています。火鉢は友人宅のリビングに近年引っ越しました。

 祖父の愛した庭の樹木のみどりと生垣は、祖父が亡くなり母と叔母が相続し半分になった75坪の私の家の庭に今もかろうじて残っています。

 地球にやさしいものはなんであれ大事にしたいものです。

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祖父の遺した大きなテーブル

  今 現在、家の2階には息子夫妻と孫(5歳)が、母亡き後の1階には私が住んでいますが、孫を見ていつも思うのは、私が大切に思っているみどりや祖父が大事にしていた大きなテーブルは孫の代になっても引き続き大切にしてもらえるだろうかということです。