「みどり、自然、すまい」(10)

  プーチンの戦争が始まって、無差別な暴力によりウクライナの普通の人々のくらしが破壊されていくという恐ろしい現実がある。着の身着のままで国外へと避難する子供たちを含めた何百万もの人々がいる一方で、国を守るために武器を手にしている一般市民がいる。そんな彼らの姿、破壊された街の映像を毎日、テレビで追いかけている私。

  このような悲惨なコトは過去の歴史で何度も繰り返されてきた。すべて人間のやったコト。それが戦争。今年も夏がやってきて、沖縄戦のドキュメントがテレビで流れた。あの太平洋戦争でどれだけ多くの普通の人々が加害者になり、またどれだけ多くの人々が被害者となり、普通の人々のくらしが壊され、尊い命が失われたことか。かって、サハリンを旅行したことがあるが、そこには自分の意志ではなく日本により連れてこられた韓国人の子孫が大勢くらしていた。 

   最後は広島と長崎の原爆投下にまで行ったコトの終わりを改めて考える中で、これまで私が大事にしたいと思ってきたコト、例えば、「生活の質」とか、「まちづくり」とか、「環境問題」などは、今のウクライナの人々にとっては「大した問題ではない」コトなのだと思い至り、月2回ごとに自費出版して近所に配布していた「鵜の木通信」を出すことの意味が分からなくなってきた。 

    ウクライナの人たちだけではない。今、日本でも、病気で苦しむ人や生活苦に苦しむ人が大勢いて、彼らにとっては「生活の質」や「まちづくり」や「環境問題」より大事な一日一日のくらしがある、と気が付いたことも「鵜の木通信」廃刊の理由ではある。

 アフリカから私たちの祖先ホモサピエンスが大陸へ移動して以来、人間はこの地球上で領土の奪い合いを続けて今に至るのは、私たち人間のDNAのなせる業か。止まらない私たち人間の様々な破壊行為に地球も悲鳴を上げている。

 

 

「みどり・自然・すまい」(9)

 私は「鵜の木通信」を2か月に一回の割合で自費出版し、地元に配っています。

 今回から、地域のことでなく広く皆さんに知ってもらいたい記事をブログで紹介することにしました。今回紹介する記事は「鵜の木通信」7号(2021年11月20号発行)の記事「まちに林立する電信柱を考える」です。

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まちに林立する電信柱(鵜の木地区で)

●まちに林立する電信柱を考える。

 海外を訪れると、電信柱のない各都市のまち並みがとても美しいと思います。電信柱がなくなれば、私たちのまちの景観はもっとよくなるはずです。一方、阪神淡路大震災東日本大震災や令和元年の台風15号では、倒壊した電信柱が道路をふさぎ、緊急活動や物資の輸送が滞る、大停電が発生するなどの事態が発生しました。直下型地震が東京で起ったら、一体どうなるでしょう。平時でも、電信柱のせいで交通事故に巻き込まれ、命を落とす人が大勢います。

 気候変動が深刻化している昨今、まちの電信柱の地中化は国や自治体の都市計画の重要課題です。

 先の2020東京オリンピック開催で東京の都心部(センター・コア・エリア)の都道(約530 ㎞)の無電柱化はほぼ100%完了(都道路管理部安全施設課)。大田区もオリンピックホッケー会場周辺の区道の無電柱化を実施しました。(区都市基盤管理課)

 道路には国道、都道区道、私道がありますが、無電柱化が進行中あるいは計画中となっているのは道幅の広い道路に限られています。大田区内を走る都道の環八や中原街道の無電柱化は目下進行中ですが、多摩堤通り都道)の無電柱化は、今現在0%です。(都道路管理部安全施設課)。

 大田区は2021年(令和3年)3月に「無電柱化推進計画」を策定し、都市防災機能の強化/安全で快適な歩行空間の確保/まちの景観づくりを無電柱化計画の3つの目的としています。これまでも無電柱化を進めてきた大田区ですが、無電柱化整備完了区間(2020年4月時点)は区道(約777㎞)の約1.4%にすぎません。そこで、区内の無電柱化の実情を都市基盤管理課に聞きました。

 現在の一般的な無電柱化方式である電線共同溝方式で無電柱化を進めるには、莫大な費用と長い工事期間(400mに7年を要す)以外にも地上機器を置く2.5mの歩道の確保が必要です。従って、狭い道路の無電柱化は現時点では難しく、また用地確保では沿道住民の協力も必要となる、と担当者。

 区の「推進計画」は、今後10年間で優先的に無電柱化を推進する羽田地区などの15路線を指定しています。15指定路線につながる道路の無電柱化の可能性も示されていますが、狭い道路の無電柱化には技術革新を待つしかないでしょう、と担当者。

 電気/通信事業者の利権絡みが無電柱化の障害となっていることはないのでしょうか。

 ロンドンでは、コスト高だが無電柱化は風雪災害に強く、供給信頼度を向上させ、景観もよくなるという市民の意識が無電柱化を後押ししたとも聞きます。日本の川越市金沢市でも、市民たちが主体となって行政や事業者に働きかけて無電柱化を実現し、地域経済の活性化ができたそうです。

 誰かがやってくれるのを待っているだけでは、無電柱化による「安全で快適なまちづくり」はいつまでたっても実現しないのでしょう。

 外国から来た友人が東京で驚いたのは、ガードレールもない狭い2車線道路に電信柱が林立し、電柱スレスレにバスが、さらには自転車、歩行者がすり抜けて行く光景でした。私たちには見慣れているまちの光景ですが、友人が住む電信柱がないロンドンから見れば、東京のまちは「危険が一杯」と映るのでしょう。

 諸外国の都市と比べれば、東京23区の電信柱の地中化は8%とダントツに立ち遅れています。(右図参照)

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国土交通省2017年調べ

 

 ロンドンは法律で架空線すべてを排除、ニューヨーク(83%の無電柱化)も電線類の地中化条例を制定。いずれも19世紀末でした。一方、日本では、戦後の復興で高まった電力需要への対応で、「仮置き」として立てたコストの安い電柱がその後も全国に立ち並びます。バブル開始時の1986年、国は第1期無電柱化計画を策定しましたが、架空線の23倍のコスト高(1㎞で約5.3億円)で計画は挫折。2016年に無電柱化法が施行されても、緊急輸送道路における電柱の新設の禁止、既存電柱は当面の間の占有可などと、国の規制は緩く、今も年7万本ほどのペースで電信柱が全国で増えているとか。

 背景には住民の景観への無関心と危機管理よりコスト面に軸足を置く公共性を欠く事業者の姿が見えます。

「みどり・自然・すまい」(8)

 待ち遠しかった春。でも、私たちは桜の季節を2度もコロナ禍の中で迎えることになってしまいました。そして気が付いたら、例年より早い梅雨の季節に・・・。

 

 コロナで明け暮れたこの2年間でなんと3度目の緊急事態宣言が出るなど、どう見ても行き当たりばったりの政府のコロナ危機対策にも「怒り」を通り越して、この頃は「ストレスがたまるのでスルーしよう」と思うばかりです。そういう人って、結構、多いのでは…。

 ただ、考えようによっては、今回の「コロナ危機」のおかげで、この国の政治や執政官のレベルの低さ、この国の危機管理のまずさなどが、だれの目にもはっきりしたことは「よかった」と思っています。

 昔、アメリカの大学院の授業で、黒板にお世辞にも上手とは言えない2文字漢字「危機」を書きながら、「危機」という漢字は「危」と「機=チャンス」の2つの字から成り立っていると説明し、「コンフリクト(英Conflict=物事が立ち行かなくなる危機的状態)」には「チャンス」という意味もあると教えていたアメリカ人の先生がいました。

 私たち学生は、「危機」、つまり「コンフリクト」が起こることで、これまでの見方や考え方が変わり、その結果、社会や個人が変わる可能性も広がる、だから「コンフリクトは必ずしも悪くない」と学んだわけですが、それも、当事者それぞれの受け止め方次第、というわけです。

 そう思って考えるに、今私たちが直面しているコロナ「危機」で、これまでのさまざまな価値観からのパラダイムシフトがうまくいけば、コロナ後、2015年の国連で決まった国際社会共通の目標のSDGs(持続可能な17の開発目標)を達成する国々も出てくるでしょう。

 さて、コロナ後の日本はどうでしょうか。

 今、コロナの影響による減収で多くの自治体が公共事業の予算を減らしている一方、私の地元大田区では箱もの建設の公共事業の見直しをせず、減収で予算が足りない分、借金や区債を発行してお金を集めようとしていると、友人からラインで情報が届きました。

 「公共事業で右肩上がりの経済成長を!」と、いまだに昔の夢を見続けてパラダイムシフトができない人々が大勢いる、しかも、そういう人々が地方自治体だけでなく中央政府の行政機関にも大勢いるのだろうと、昨今のこの国の政治を見て思うわけです。

 

 そんな大田区の環境計画課から、私の所属するボランティア団体「多摩川とびはぜ倶楽部(tamagawa-tobihaze.amebaownd.com)に、先日、活動紹介のパネル展示をしてほしいと依頼があり、多摩川干潟の生き物たちの紹介と川での清掃活動の様子を紹介するパネル2枚を作成して区役所に搬入しました。当日、私たちをがっかりさせたのは、環境計画課の「環境コーナー」が区役所の建物の片隅に設置されており、「環境コーナー」に隣接するマイナンバー受付会場へ誘導する案内板は置いてあるも、区役所玄関の入り口のどこにも「環境コーナー」へ誘導する案内がないことでした。

 さらには、「環境コーナー」の前にも「マイナンバー受付」の案内版が置かれていて、私たちの展示パネルが見えなくなっているではありませんか。

 「あの案内板を少し動かせませんか」と環境計画課の担当者に打診すると、「それはマイナンバー受付の部署の管轄で、私どもの管轄ではないので、何もできない」とそっけない返事。いくら頼んでも埒が明かないので、私がマイナンバー受付に直接行って、「このままでは、せっかくの展示パネルが見えないので、この案内板を反対側に移動できませんか」とお願いしたところ、難なく問題解決ができ、マイナンバーの案内板を移動することができました。

 ちいさな案内版を右から左へ移動するという些細な事でしたが、ちょっとしたことでも面倒なことはやりたくないという人がいる、「環境コーナー」などを設置はするも、できるだけ多くの住民に環境問題を知ってもらいたいという志もなく、ともかく形だけ整えればそれで仕事は終わったと考えている人たちがいる。そして彼らが地方自治体や国の行政を支え・担当している限り、この国が諸外国に倣って掲げるSDGs(持続可能な開発目標)を目指すのは夢のまた夢。とても「難しいだろう」と思いました。

 

 私が今大事にしている言葉があります。それは"Think globaly, Act locally "(地球的視野で考え、ローカルに行動する)です。

 

 未来のまちづくりについて、東京都は先端技術も活用しながらゼロミッション東京を目指し「地球環境と調和を図り、持続的に発展していくこと」を理念とすると公表していますが、このような高邁な理念を「絵にかいた餅」で終わらせないためには、まず、自分たちの足元から見直し、志を持って行動し、組織や集団を支えることのできる人材の育成や登用から始めるべきでしょう。

 地方自治体はもちろんのこと、日本の政治や行政に携わるすべての人々が、今回のコロナ「危機」を機に、パラダイムシフトをしてくれることを期待しています。

 「公共事業で右肩上がりの経済成長を!」では、この国の未来はないと思っていますが、皆さんのお考えはいかに。

 

 

 

 

「みどり、自然、すまい」の話(6)

 

 

 とくに最近目につくのが、私の住む大田区の鵜の木地区だけでなく東京のあちらこちらでの宅地化です。

 9年ぶりに行ったという大田区の「みどりの実態調査」(2018年度)では:

「樹木被覆地は区全域で46.09㌶の減少で、そのうちの約9割が台地部で減少している。樹木被覆地の減少箇所は集合住宅や戸建住宅に代わっているものが多く、住宅地が増えることで緑被値が減少していると考えられる」と、近年、みどりが少なくなっていることを区も認めているのです。でも、行政には宅地化を止める打つ手がない…?

 

 最近ですが、私の家の裏の一軒家の跡地にも4軒の家が隣接して建ちました。私の家の斜め前の大きな屋敷跡には、今9件の建売住宅が建っています。

 「えっ、こんなところにかやぶきの屋根がある!」と通りがかりの人々がよく驚いていたこの辺り(大田区鵜の木地区)の地主さん(天明家の本家)のみどり豊かな敷地も、つい最近、あっという間に更地になり、今そこには大きなマンションが建っています。

 こうして、みどり豊かなまちが壊れていくのに私たち住民は何もできません。行政側も民有地には何もできないのだろうとあきらめかけていたのですが・・・・。

 

 鵜の木地区の屋敷林のみどりが次々に消えていく中、隣接した西嶺町に昔の農村の面影を残している緑地が奇跡的に残っていました。通称「梅の里」と呼ばれているこのあたりは、早春には家々の庭の桃や梅の花が満開になり、あたり一帯がピンク一色の別世界となって道行く人々を楽しませていました。

 この貴重な緑地(0.38㌶)が、今秋、大田区の「特別緑地保全地区」に指定され、大田区はそのことを正式に告示(2020年11月9日)しました。

 

 この指定により緑地所有者は、今まで通りにそこに住み、不動産税の軽減や樹木管理助成を区から受けられ、家屋や樹木の現状が維持されるのですから、「ウィンウィンでよかった」、なによりも「いまどき、自己利益ばかり考えない人もいたのだ」と私は思ったのですが、大田区のまちづくり推進課の担当者は「人がこの地区に大勢押しかけると静かに暮らしたいといっている地権者が困るのでは」と告示後に心配しているのです。

 同じ名前の表札がいくつもあり、どれが本家でどれが分家かも私たちにはわかりませんが、この一族は「四国の長曾我部の家来で武家の出」と人づてに聞いています。

 江戸時代、2代目の当主が雑貨商で読み書きそろばんができたことから、3代目がこの地に寺小屋を開いたそうで、その寺小屋跡の碑は今も梅の木々の陰に埋もれ、ひっそりと立っています。

 先日そのあたりを歩いたら、この一族の一軒の家の玄関先に「ご自由にご覧下さい」の看板が・・・。覗いてみると、奥の玄関には「お月見」のしつらえが・・・。3月には赤毛氈のひな壇が飾られます。

 

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            お月見のしつらえが公開され、左には「ご自由にご覧下さい」との案内が

 

 早春、この一帯に広がる梅や桃の花のピンク一色の世界、そしてこのような季節のしつらえというすばらしい「おもてなし」に、この辺りを散策する私たちの心は和み、昔懐かしい自然とくらしの情景が都内にまだ残っていることに驚き、心より感謝をしているのです。

 「大田区の心配は杞憂に過ぎなかった」といえるように、私たち周りの住民一人ひとりもみどりの環境を守り、個々人の生活を守るべく配慮をする責任があると私は思います。

 

 今回の区による西嶺町の民有緑地の保全により、イギリスのボランティア団体「ナショナルトラスト」を思い出しました。この団体の目的は単なる環境保護だけでなく、歴史的建造物や景勝地を国民の遺産として保持することで、ナショナル・アイデンティティー(愛国心や国民の一体感)を形成することを目指しているとWikipediaにありましたが、今回の指定で大田区は貴重な歴史や文化も残すことができたわけです。今回の行政の快挙のおかげで、ちょっと豊かな気持ちになりました。

 

 

 

 

 

 

 

「みどり・自然・すまい」(5)

    

  今日は、大田区「鵜の木」の私の家の話をしたいと思います。

 私の家が建っているのは多摩川武蔵野台地を削り取ってできた国分寺崖線東京湾に迫る南端の台地で、この辺り一帯には古来から人々が住んでいたようで、今もここかしこに古墳が多く残っています。有名なのは、東急多摩川線鵜の木駅から2つ目の多摩川(昔の多摩川園前)駅を降りてすぐの多摩川台公園の「亀甲山古墳」です。

 「鵜の木」の地名ですが、旧石器時代の遺跡や石器が出土した近隣の光明寺の記録によると、関東平野のこの辺りには太古から豊かな森が広がり、鵜が多く生息していたことから、自然発生的に「鵜の森」から「鵜の木」と鎌倉時代には呼ばれていたそうです。

 室町時代になると、下野の国(今の栃木県佐野市)から天明家一族(今も地元の地主さん)が移り住み村落を作ったそうで、江戸時代の鵜の木村の盟主天明家の敷地は東急多摩川線鵜の木駅から4駅目の蒲田まであったというから驚きです。 

 大正7年(1918年)に「田園都市株式会社」を創設し、畑地と雑木林が広がる今の目黒、品川、世田谷、大田区一帯48万坪あまりの土地を買収したのが 、今放映中のNHK大河ドラマの主人公の実業家渋沢栄一です。 

 渋沢は日本で初めて計画的な住宅専用市街(今でいうニュータウン)の建設を目指し、大正11年(1922年)から洗足、大岡山、そして多摩川台地区の分譲を開始しました。当時販売されたのが「田園調布」で、一区画は150坪、2mの高さの生垣、道路から2m奥に家を建てるなどの条件つきの住宅専用分譲地でした。その豊かな街並みは、今も残されています。

 実は、私の祖父もこの多摩川台地区の分譲地だった「鵜の木」を買い、家を建てました。しかしながら、この家は太平洋戦争でB29の焼夷弾により全焼。戦後、祖父が再建した2軒目の家の8畳の座敷には大きな木(木の種類は不明)をくりぬいた大きな火鉢と一枚板の大きなテーブルがありました。実は、この大きな火鉢とテーブルは焼夷弾が落ちて延焼する家の中から、祖父が「火事場のバカちから」で庭に投げ出した唯一の家財だったそうです。

 火災の延焼跡が黒くシミになって残っているこの大きな火鉢とテーブルは、祖父から母、そして孫の私へと代々受け継がれ、今、テーブルは私の家のリビングに置かれています。火鉢は友人宅のリビングに近年引っ越しました。

 祖父の愛した庭の樹木のみどりと生垣は、祖父が亡くなり母と叔母が相続し半分になった75坪の私の家の庭に今もかろうじて残っています。

 地球にやさしいものはなんであれ大事にしたいものです。

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祖父の遺した大きなテーブル

  今 現在、家の2階には息子夫妻と孫(5歳)が、母亡き後の1階には私が住んでいますが、孫を見ていつも思うのは、私が大切に思っているみどりや祖父が大事にしていた大きなテーブルは孫の代になっても引き続き大切にしてもらえるだろうかということです。

「みどり、自然、すまい」の話(4)

 コロナ前にはたくさんの外国人観光客が日本にもやってきました。その外国人観光客が日本で一番驚くのは電柱の多さだそうです。ロンドン、パリなどヨーロッパの多くの都市の街並みが美しいと思うのは無電柱化のせいもありでしょう。景観はもとより、地震大国の日本ですから、防災・安全面からも電柱の地下化は緊急課題です。

  あの 2011年の東日本大震災では電柱の倒壊や電線の垂れ下がりが問題となりました。その後、日本でも2016年に無電柱化の推進に関する法律が成立しましたが、記憶に新しいところでは、令和元年( 2019年)の房総半島台風で千葉県内に大規模な停電が発生するも、電線に引っかかった倒木のために復旧作業がかなり遅れました。東京23区の電柱地中化率は約8%、全国平均だと約2%だそうです(Wikipediaによる)から、東京に直下型地震が起こらないことをひたすら願うばかりです。

   実は、私の友人の外国人が日本のまちで驚いたのは電柱の数だけではなく電柱の立つ場所でした。彼女が驚いたのは、ガードレールで守られた歩道もないような狭い道に沿って立ち並ぶ電柱で、その脇をバスやトラックが、車や自転車が、そして歩行者たちが、まるでサーカスの曲芸のようにすり抜けていく光景でした。それから、停留所でバスを降りた人がそのまま動けずに狭い道路ぎわの商店と電柱の間でバスが通りすぎるのを待っている光景でした。私たちには日常的な光景が、見慣れていない人たちには脅威に映るのでしょう。

 今、コロナで通勤電車の「密」を避けるために自転車通勤に切り替えようと思っても、会社に行くまでの道を考えてあきらめてしまう人も大勢いるでしょう。致し方なく歩道を走る自転車も多々ありますが、これまた、歩行者にはとても危険なのです。

 とにもかくにも、日本の狭い路地や道路が危ないのです!身の危険を感じるのは地震などの災害時だけではありません。東日本大震災の配信映像を見て日本人の忍耐強さが外国人を驚かせたようですが、私たちは日々相当ストレスをためているに違いありません。

「みどり、自然、すまい」の話(7)

 

 

  

 コロナに始まりコロナで終わった昨年末のある日、久々に、家の近くの散策路を通って図書館に行く途中、清掃作業をしている人に出会ったので、「いいですか?」と聞いて写真を1枚撮りました。

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旧六郷用水散策路は清掃中

 

  この散策路は、江戸時代の農業用の灌漑用水路が昭和の高度成長期に暗渠になっていたものを、近年、近くの「せせらぎ公園(前多摩川園)」の湧水を循環させて「旧六郷用水散策路」として大田区が復元し、整備・管理をしているもので、清掃中の小さな小川(?)も江戸時代の農業用灌漑用水路も、いずれも、人の手によって作られた人工水路です。

  水は、人間も含めあらゆる動植物が生きるために不可欠な「資源」(natural resource)で、水のあるところに文明は発達したわけですが、近代化が進むにつれ、私たち人間のくらしはより快適により安全になる一方で、社会経済の構造変化、人口の増加などを背景に、世界中で水や食糧や土地など(すべて貴重な「資源」!)の奪い合いが始まり、増加する牛肉の需要供給のために、例えば、ブラジルのアマゾンの熱帯雨林が伐採され大きな牧場へと変わるなど、時代とともに人々のくらしは豊かになるとともに地球上の自然環境破壊が進みました。

 

 私が暮らしている地域の昔の景色はどのようだったのか、人々のくらしはどうだったのだろうか。ーーーそれは残された古文書などを紐解いてひたすら想像するしかありませんが、蛇口をひねればお湯が出るようなことはなかったとしても、みどり豊かな自然に囲まれ、自然のチカラをより身近に感じながら、恐らく、私たちの祖先は貧しくも、ある意味では、今よりも「ゆたかな」くらしをしていたのかもしれません。 

 

 今、私の住む大田区の平野部には所せましと住宅が密集し、歩道も車道もアスファルトで覆われ、かってあったという森も、そして湧水も減ってしまいました。区が復元・整備した多摩川下流にかかる丸子橋の橋下から約1㎞ほど続く復元「散策路」には、この路に沿って「六郷用水」が流れていたことを示す案内板と、かっての国分寺崖線の崖から一か所染み出ている「東京の名湧水57選の一つ」と記された湧水があるだけ。

 

 「六郷用水」を造ったのは徳川家康で、三河から未開拓の関東に国替えとなった家康は江戸幕府開府6年前の1597年に領内の水田開発事業に着手し、14年後に六郷領(今の大田区)の灌漑用水路は完成しました。

 多摩川を水源とするも、当時の技術では近くの多摩川の水を汲み上げられず、10㎞も上流の狛江市(和泉村)から取水し、800分の1という勾配で領内35ヵ村を網の目のように水路を巡らせたというから驚きです。しかも、 当時、本流は横巾約4.5mもあったそうで、地域の農家の人たちが交代で掘り進め、幕府から水利権を与えられた代わりに農民たちは用水路の管理・維持をしていたそうです。

 家康が始めたこの大事業のおかげで「城南の米蔵」となった大田区の平野部。しかしながら、大正、昭和になると都市化が進み、水田は畑に、農地は宅地へと変わり、昭和の高度成長期には「六郷用水」は生活用水路へと変容します。

 大正9年生まれの母が子供の頃にはホタルがたくさん生息していたそうですが、私が幼稚園に行くために渡った橋の下の「六郷用水」は悪臭のひどいどぶ川となっていました。

  本来の役割を終えた「六郷用水」は昭和30~40年代に暗渠となり 、やがてアスファルトの車道、歩道、緑道が整備された散策路に生まれ変わり、今は地元の人々の憩いの場所になっています。

 

 江戸時代をさかのぼることさらに500年ぐらい前の鎌倉時代には、まだ「六郷用水」はなく、この辺一帯にはゆたかな森が広がり、鵜が多く住んでいたことから「鵜の木」と呼ばれていたそうですが、室町時代に下野の国(今の栃木県佐野市)から天明家一族が移り住み、その後、代々この地の地主をしていた天明家。その屋敷林には、ごく最近まで、「奇跡の野鳥の楽園」と呼ばれたみどりの森が環状八号線沿いに残されていました。

 数年前には「奇跡の野鳥の楽園」から天明家の塀を突き破って出ていた大きな木(クヌギ?)の木肌を通りがかりの人がよく撫でていました。そんな光景も、鳥のさえずりも、この屋敷林跡に大手ディベロッパーによる大きなマンション2棟が建ったため、跡形もなく消えてしまいました。

 

 時代とともに変わる人々のくらしと、それに伴うまわりの環境変化・・・。

 

 かっては豊かな森が広がっていた鵜の木地区を、今、大田区は区内のくらしを支える「みどりの拠点」(環境保全)の一つとしていますが、一度壊された自然やみどり、小さな生き物たちが生息する水環境は決して元通りにはなりません。

 それでも、私たち人間はよりよいくらしを求めることをやめることなく、自然環境を壊し続け、そして、今、私は復元された「旧六郷用水路散策路」を歩いているわけです・・・。 これから50年先、あるいは100年先、この辺り一帯はどうなっているのだろうかと、人口水路を見ながら、複雑な気持ちで歩くこの頃です。

 

 

 

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