「みどり、自然、すまい」の話(7)

 

 

  

 コロナに始まりコロナで終わった昨年末のある日、久々に、家の近くの散策路を通って図書館に行く途中、清掃作業をしている人に出会ったので、「いいですか?」と聞いて写真を1枚撮りました。

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旧六郷用水散策路は清掃中

 

  この散策路は、江戸時代の農業用の灌漑用水路が昭和の高度成長期に暗渠になっていたものを、近年、近くの「せせらぎ公園(前多摩川園)」の湧水を循環させて「旧六郷用水散策路」として大田区が復元し、整備・管理をしているもので、清掃中の小さな小川(?)も江戸時代の農業用灌漑用水路も、いずれも、人の手によって作られた人工水路です。

  水は、人間も含めあらゆる動植物が生きるために不可欠な「資源」(natural resource)で、水のあるところに文明は発達したわけですが、近代化が進むにつれ、私たち人間のくらしはより快適により安全になる一方で、社会経済の構造変化、人口の増加などを背景に、世界中で水や食糧や土地など(すべて貴重な「資源」!)の奪い合いが始まり、増加する牛肉の需要供給のために、例えば、ブラジルのアマゾンの熱帯雨林が伐採され大きな牧場へと変わるなど、時代とともに人々のくらしは豊かになるとともに地球上の自然環境破壊が進みました。

 

 私が暮らしている地域の昔の景色はどのようだったのか、人々のくらしはどうだったのだろうか。ーーーそれは残された古文書などを紐解いてひたすら想像するしかありませんが、蛇口をひねればお湯が出るようなことはなかったとしても、みどり豊かな自然に囲まれ、自然のチカラをより身近に感じながら、恐らく、私たちの祖先は貧しくも、ある意味では、今よりも「ゆたかな」くらしをしていたのかもしれません。 

 

 今、私の住む大田区の平野部には所せましと住宅が密集し、歩道も車道もアスファルトで覆われ、かってあったという森も、そして湧水も減ってしまいました。区が復元・整備した多摩川下流にかかる丸子橋の橋下から約1㎞ほど続く復元「散策路」には、この路に沿って「六郷用水」が流れていたことを示す案内板と、かっての国分寺崖線の崖から一か所染み出ている「東京の名湧水57選の一つ」と記された湧水があるだけ。

 

 「六郷用水」を造ったのは徳川家康で、三河から未開拓の関東に国替えとなった家康は江戸幕府開府6年前の1597年に領内の水田開発事業に着手し、14年後に六郷領(今の大田区)の灌漑用水路は完成しました。

 多摩川を水源とするも、当時の技術では近くの多摩川の水を汲み上げられず、10㎞も上流の狛江市(和泉村)から取水し、800分の1という勾配で領内35ヵ村を網の目のように水路を巡らせたというから驚きです。しかも、 当時、本流は横巾約4.5mもあったそうで、地域の農家の人たちが交代で掘り進め、幕府から水利権を与えられた代わりに農民たちは用水路の管理・維持をしていたそうです。

 家康が始めたこの大事業のおかげで「城南の米蔵」となった大田区の平野部。しかしながら、大正、昭和になると都市化が進み、水田は畑に、農地は宅地へと変わり、昭和の高度成長期には「六郷用水」は生活用水路へと変容します。

 大正9年生まれの母が子供の頃にはホタルがたくさん生息していたそうですが、私が幼稚園に行くために渡った橋の下の「六郷用水」は悪臭のひどいどぶ川となっていました。

  本来の役割を終えた「六郷用水」は昭和30~40年代に暗渠となり 、やがてアスファルトの車道、歩道、緑道が整備された散策路に生まれ変わり、今は地元の人々の憩いの場所になっています。

 

 江戸時代をさかのぼることさらに500年ぐらい前の鎌倉時代には、まだ「六郷用水」はなく、この辺一帯にはゆたかな森が広がり、鵜が多く住んでいたことから「鵜の木」と呼ばれていたそうですが、室町時代に下野の国(今の栃木県佐野市)から天明家一族が移り住み、その後、代々この地の地主をしていた天明家。その屋敷林には、ごく最近まで、「奇跡の野鳥の楽園」と呼ばれたみどりの森が環状八号線沿いに残されていました。

 数年前には「奇跡の野鳥の楽園」から天明家の塀を突き破って出ていた大きな木(クヌギ?)の木肌を通りがかりの人がよく撫でていました。そんな光景も、鳥のさえずりも、この屋敷林跡に大手ディベロッパーによる大きなマンション2棟が建ったため、跡形もなく消えてしまいました。

 

 時代とともに変わる人々のくらしと、それに伴うまわりの環境変化・・・。

 

 かっては豊かな森が広がっていた鵜の木地区を、今、大田区は区内のくらしを支える「みどりの拠点」(環境保全)の一つとしていますが、一度壊された自然やみどり、小さな生き物たちが生息する水環境は決して元通りにはなりません。

 それでも、私たち人間はよりよいくらしを求めることをやめることなく、自然環境を壊し続け、そして、今、私は復元された「旧六郷用水路散策路」を歩いているわけです・・・。 これから50年先、あるいは100年先、この辺り一帯はどうなっているのだろうかと、人口水路を見ながら、複雑な気持ちで歩くこの頃です。

 

 

 

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